先日、トラックオーシャンサービスの末永さんのツアーに参加した。夏島を1日かけて観光するツアー。その記録まとめ。
まずは夏島北東部から上陸。
桟橋の下に見える、一段下がった桟橋が日本統治時代のもの。
昔は道があったそうだが、いまでは軽く獣道になっている。
あさのき?と呼ばれている木。割くと強い繊維がでてくる。これを編んだりして、強い編み物を作る。
マンゴーの大木
わたの木のわた。白い綿が飛んでいるのはこれの種子を飛ばすための綿。たんぽぽと同じだ。カポックと呼ばれていて、撥水性に優れている。そのため、第二次世界大戦頃までは救命胴衣などに使われていた。
倒れた木からタコの木が生えている。
板根(ばんこん)と言って、木の耐震のためや通気のためにできる根っこらしい。
http://home.interlink.or.jp/~hidebo/bannkonn.html
この板根部分を木の幹からばっさり切ったテーブルは立派ですごく高級らしい。
看護婦寮の基礎が残っている
奥には風呂場などの跡地。廊下のあともある。広い建物だったことがわかる。現地の子も看護婦を手伝っていたそうだ。
当時は島を一周する道路が整備されていて、車もたくさん走っていた。その道は今でも広くのこっていて、アスファルト舗装はところどころ残っている。道幅も広くて、今の本島である春島よりも綺麗だ、と感じた。
オジギソウ。小学校の頃、よく遊んだ。
ホナガソウ。花の穂が長い。紫色の小さな花をつける。ブラジルではお茶にして飲むらしい。
大きな海軍病院があったエリア。ここは現在の在日本ミクロネシア大使のフリッツ家の生家らしい。建物自体はないが、階段や高床式の基礎部分が残っている。
建物の外にあったお手洗いの残骸。立ち小便器らしい。
一部の基礎を利用して、新しい家が建てられていた。
入院病棟への入り口
第1時世界大戦後に領土とした日本だが、ジュネーブ条約により宗教弾圧は禁止されており、キリスト教がそのまま残った。その時の統治時代に日本の宣教師によって作られたキリスト教の教会が残っている。教会の前に大きな木があった。
採石場。夏島には4箇所採石場があって、岩を採取して加工していた。大きな土台はジョークラッシャーとよばれる、岩を砕く機械が置いてあった場所。
この辺りは眺めが綺麗だった。ずいぶん山を登ってきたんだ。
日本人が最大で3万人くらい都市化していた夏島には輸送のために電車をつくる予定もあったらしいが、結局頓挫。その時のレールが残されている。昔はもっとたくさんあったそうだが、建築資材などで使えるので現地住民が持っていってしまって、もうこれだけになってしまった。電車関係の観光客がこれを見て今でも使えるような一級品だということに驚いていたそうだ。
病院の近くには当時の基礎を使って新しい建物がつくられている。この風景は夏島ではよく見る。
木が生えたトラック
藪を少しかき分けて中に入る。
病院の正門。門柱が残っている。一時は海軍司令本部だった夏島には山本五十六もいて、負傷した海軍兵を励ますためによく来ていたそうだ。
石垣なども残されているが、そのほとんどがジャングルに飲み込まれている。中に入っていけば残っているものもあるそうだが、入るのは難しい。
病院の車両整備車庫跡。この台はエンジンを乗せて作業するための台。
隣には車を下からいじるために潜る階段があった。
今のチュークには見られない、側溝。
シャッターの跡も残っている。
パンの木がたくさん生えている。バナナも生えていた。
この辺りが、残っている中では道幅が一番広いらしい。これがきちんと舗装されていたら片道1車線の広い道路だっただろうなぁ。
バナナの花
山を切り崩して作った土地や道路の側面は石垣ががっちり残っている。そこには処理されることのない大量のゴミが捨てられていた。
藪の中を少し覗くだけで、なにかしらの構造物の後がすぐ見える。かなりたくさんあることがわかる。
アスファルト舗装はなくなっても、踏み固められた道路はすごく歩きやすい。
チュークの民間人を乗せて日本本土へ戻ろうとした、赤城丸。トラック大空襲に巻き込まれて700人近くが犠牲になった。シゲトストアの先祖、橋口茂さんの奥さんと赤ちゃんが乗っていたそうだ。
3世のマイロン橋口がこの碑をつくって立てた。橋口商店は民芸品の素材などを売っていた。72名生き残り、と記録が残っているらしいがこれは乗組員のみで、民間人の数はカウントされていなかったそうだ。これは日本の悪いところだと末永さんは言っていた。
現在では春島でも見られない、側溝が当時はきちんと整備されていた。それも残っている。
当時の海軍司令本部。ここは入場料が1人3ドルかかる。建物などは残っていない。門柱がある。
門柱横の検問所跡。
正門のゲート自体を止めておくための歯止め。不思議な形だ。
敷地内から正門を見返す。
建物があった場所。建物の正面入口にあたる。奥には大きな貯水タンクが残っている。
正門だけあって、きれいな車止めがあった。今でもホテルの正面入口で見られるようなやつ。
昭和16年に天皇の弟、高松宮殿下がチュークにいらした喜びを書いた碑。武田中将が作った。書かれている「鉄地」(てっち)とはトラックのこと。
なにかの金具。いまでも動く。
司令本部の隣には士官が住んでいたエリア。建物の基礎や貯水タンクが残されている。
近くには司令本部の庭があったそうで、日本から持ち込まれた竹林があった。夏島にも春島にも竹は生えているが、それは日本から持ち込まれたものらしい。ヤシの木と並んで生える竹は不思議な感じだった。
左右で上下に分かれる分かれ道。
当時は交差点として機能していた場所。石のサークルは当時からあったそうで、ここには小屋があって、検問所になっていた。
少し歩くと見えてくる遊郭。風俗や料亭が並んでいたらしい。そういった仕事をしていた女性だけで800人くらいいたと言われている。遊郭はビジネスとして行われていて、強制的なものではなかった。遊郭跡には家が建っていて、人が住んでいる。奥に見える青いタンクのあたりは待合室やお手洗い。さらに奥にある井戸は当時から使われていて、女性たちの待機所やお風呂だったらしい。
遊郭のエリアは海軍用地として管理されていた。その石碑が残っている。ここの地主が観光にはうるさいので、あまり奥まで見ることはできなかった。
夏島の東部の湾を横切る形で橋がかかっている。橋の下はボートが通れるようになっている。ちょんちょん橋というのはセックスを表す隠語が橋の名前になった。橋を渡って遊郭に遊びに行くからこの名前になった。英語のガイドブックにはChonChonBashiと記載されているらしい(真偽不明)。ちょんちょん橋の柵は空襲でなくなり、1990年後半にアッピンが復元した。当時のものとほとんど同じらしい。
ヤシは100年生きる。橋の両側に生えた等間隔の並木は日本の営林署が植えた。
橋を渡ると、大きなグラウンドがある。埋め立てで作られた場所で、当時はもっと広くてテニスコートや野球場、陸上トラック、土俵まであったらしい。ちょうど今日は夏島、秋島、冬島の運動会が行われていた。グラウンド近くの大きな木は高松宮殿下が植えられた。
島対抗の運動会なので盛り上がる。運動会は森小弁がはじめた文化で、今でもウンドウカイと呼ばれ、イチクミ、ニクミ、サンクミ、という風にグループ分けされている。競技はひたすら走る。徒競走やリレー走しかない。
しばらく眺めてみたが、ほとんどの人が裸足で走っている。選手の実力差もすごくあって、レースに差がついていた。
藪の中を見ると、井戸が残っている。
グラウンドの入り口には陸軍の宿舎の門柱がある。陸軍が上陸したころはグラウンドは宿舎が建てられていたため、ここがグラウンドだったことを知らない兵も多かったらしい。夏島はかなり埋め立てが行われたそうで、隣にあった松島という小さな島は夏島とくっついた。
グラウンドの横の道を進んでいくと、このあたりは商店街だったそうだ。入舟町と呼ばれていた。
JALの前身日本航空のオフィスがあった。東京から直行便が飛んでいて、二式大艇で長距離フライトだったそうだ。チケットはいくらくらいしたのかな…。給料は当時の軍の士官で120円くらいらしい。
島には4つくらい映画館があったらしい。その一つ、トラックキネマがあった場所。
池田旅館があった場所。
今では門柱が1つだけ残っているが、ここにはお寺もあったそうだ。
幼稚園と国民学校(小学校)があった場所。ここは橋口茂人さんが通っていた学校。学校敷地内に入ると、朝礼台や職員室跡が残っているそうだ。
アスファルト舗装が残る坂道を登る。木陰を通り抜ける風が気持ちいい。
海軍病院を横切って、坂を登るとトラック神社が見えてくる。都洛神社でトラック神社と読んでいた。このあたりは宮前町と呼ばれていた。
当時は大きな鳥居もあったそうで、この階段を何度か登って山の上の方に行けば本堂があった場所があるらしいが、今は階段くらいしか残っていない。
近くの壁面には防空壕の跡。
階段は綺麗に残っていた。鬱蒼とした雰囲気で、落葉樹ばかりだからか、ここが南国だと言うことを忘れてしまうなんだか不思議な空間だった。日本の夏の、田舎の山の人気のない神社に本当にいるみたいだった。
歩いているといくつも防空壕を見つけることができる。
珍しく、生け垣がある家があった。竹で組まれていて、日本っぽい。誰かが教えたものが今でも残っているのだろうか。見晴らし亭という料亭があった。見晴らしが綺麗な場所だった。
太子堂の跡地。文字がかろうじて読める。階段も残っているが、わかりにくい。
海軍御用達の料亭小松の跡地。
料亭小松。海軍御用達の高級料亭。松なのでパインと呼ばれ、チュークの支店はトラックパインと呼ばれた。
以下、Wikipediaから引用。
1942年(昭和17年)7月、トラック諸島の夏島に小松の支店であるトラック・パインが開店することになった。トラック・パインでは日本から最初は20-30名、後に約50-60名の芸者、料理人、髪結いなどを連れて行き、日本国内とあまり変わらぬサービスを提供した。なお、トラック諸島の次にラバウルにも支店を出す予定があったが、戦況の悪化によって中止された。
今じゃなにもないように見えるこの通りも当時はかなり栄えていたんだろう。美味しいごはんとお酒でたくさんの日本人が楽しんでいたのだろうか。
別の料亭、根岸屋があった。このあたりは花街と呼ばれた。
シゲトストアの前身ともいえる、橋口商店の跡地
商店街だけあって、側溝もきちんと整備されていた。
ここは喜楽という料亭があった。
商店街の終わり。ここは三叉路になっていて、上下に分かれ道になっていた。
藪を覗くとまた井戸の跡が見える。
途中、井戸を破壊して生えているマンゴーの大木があった。時代の流れを感じる。
最後に、島の南東部の桟橋に戻ってきて、終了。運動会に参加するためにボートがたくさん並んでいた。これも珍しい光景。
夏島の北西に見える白い大きな建物がある場所は当時は潜水艦基地。平安丸や伊号はここを使っていたのだろうか。当時は桟橋があって、潜水艦がそのまま着岸できるようになっていた。(写真なし)
五十六の飛び立った飛行場は夏島の竹島側にある。(写真なし)
夏島の北部沿岸には今でも大きなトーチカが残されている。
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